柳原和子「がん患者学」晶文社版より
∞∞∞【死ぬのだな。そう感じた。涙がとめどもなく溢れる。】∞∞∞
晶文社版は、
第1部 患者は語る =長期生存者へのインタビュー
第2部 専門家に聞く =専門家へのインタビュー
第3部 再生―私とがん =分自身のがん闘病記
となっています。
*水色の部分は引用部分です
1997年5月9日。
「緊急入院した総合心療内科医の呟きが、私とがんという病名との最初の出会いだった。
「この症状の卵巣がんで、五年生存率は二十パーセントですね・・」
・ ・・・・・
五人に一人しか五年を生きられない、という統計値は私の心を根底から揺さぶった、。
震えが止まらない。
私の五感がいっせいに、細心にしかも過敏に働き始める。
死ぬのだな・・。
そう感じた。
涙がとめどもなく溢れる。
卵巣がん。原発巣は卵管。
そして、抗がん剤治療が続きます。
∞∞∞【大部屋は、副作用と死の恐怖のるつばと化しているのだ。】∞∞∞
以後、途中三カ月の休みはあったが、延べ八カ月もの長きにわたって私はその病室でいく人もの同病の末期がん患者たちの生と死をつぶさに見つめることとなる。
私にとっては抗がん剤よりも、彼女たちの闘病と死、そして語りつづけた言葉の記憶のほうがはるかに深く、重い副作用として残ったといっても言いすぎではない。
連日連夜、患者たちは自分たちが数年間の闘病中に出会い、別れた仲間たちの症状、経過、境遇を、誰にともなく語り継ぐ。
大部屋は、副作用と死の恐怖のるつばと化しているのだ。
ある人は治り、ある人は亡くなります。
人生の、重さ、そしてかけがえのなさが報告されます。
その間、がんというもの、医療のあり方、医師への疑問、自分自身の人生への問いかけが、次々と現れてきます。
著者は、勇気と希望の言葉で自分自身を励まします。
一方で、死の恐れ、不安、孤独が襲い、時には泣き出します。
希望と絶望の間を激しく揺れ動いたその内面は、他人からは見えないものでしょう。
でも、そのゆれ動きが、この本のあちこちで見られます。
著者は、それなら、がんのプロになろう、徹底して、がんと自分を見極めようと、決意します。
この本が読者をひきつけるところは、そのように揺れ動く自分自身を見据えながら、より広い視野で、がん、その医療のあり方、卑屈にもなり誇り高くもなる患者・人間への考察を進めるところです。
∞∞∞【今までとは、まったくその反対の暮らしをしてみればいい】∞∞∞
そして、抗がん剤治療の、3ヶ月の休止期間に、「今までとは反対の生き方」を徹底して追及します。
(今までとは)まったくその反対の暮らしをしてみればいい、と。
私のがんは私の身体とがん細胞との組み合わせでひとつの性格を形成しているとしたら、がん細胞の個性は変えられぬものの、私の身体の状態を変えることはできる自分がやれるかぎりのことをやれば、死ぬときにも納得がゆく。
代替療法と言っても良いでしょう。
食生活から、人間関係、生きる態度までの大転換です。
そこには、著者の、「安らかな死」、納得行く「死」の覚悟があり、さらにそれは、新しい生への祈りがあります。
ここには、がんと向き合ったからこそ可能となった、「死と再生」の物語があります。
それは、著者自信も記していますが、もう一度「野生」に帰ることでもあります。
野蛮の野生ではなく、自然に生かされているいのちの野生です。
∞∞∞【体の自然の力、心の癒し、再生をめざして】∞∞∞
浄水機を設置し、あらゆる調味料を無農薬のものに変えた。精白した砂糖、小麦粉、油脂は自宅に置かないこととした。野菜と海藻、ときおりのちりめんじゃこ、胡麻、玄米、蕎麦だけの食生活は、正直言って、食いしん坊の私にはかなり辛いものだった。
大好きだった肉、魚、西洋料理、パンや甘いもの、お茶、コーヒー、お酒などの嗜好品、常食であり、必需品として考えていた牛乳、卵を一切、食卓から排除する。
くる日もくる日も味噌味の根菜と昆布がふんだんに入ったけんちん汁、漬物、菊菜の胡麻和え、または小松菜の煮びたし、胡麻のかかった豆、雑穀入り玄米、そして山芋を漬け汁にした蕎麦・・・・。
こうした基本の三食に早朝の人参と蓮根のジュース、おやつにはふかしたサツマイモ、寒天、甘くない汁粉・・・・。
早朝二時間の郭林気功、深呼吸、樹林気功、昼間の散歩といった運動と連日の銭湯での腰湯。
一週間に一度は山登りをして温泉に行く。また全身の鍼灸、枇杷の葉温灸を受けた。
街角の祠(ほこら)、路傍のお地蔵さん、神社、寺、教会、大きな樹、太陽・・・・ありとあらゆるものに、祈った。
祈りの言葉、内容は、時とともに少しずつ変化していった。
根菜、味噌、海藻、豆、胡麻といった食品は、外食の多かった私の食生活にはほとんど登場しない食品群だった。
そして川べり、森林のなかの運動は、深い睡眠を約束した。夜は電気をつけず、蝋燭を灯し、香を焚いて静かな音楽を聴いて、自然の睡魔を誘った。新聞、雑誌、テレビの情報を最小限にし、友人たちとの連絡を絶ち、さまざまな会合にも出席しないで、読みたい本を読んだ。
私の身体と心が欲するかぎられた情報と体験のなかでものを考えてゆくという暮らし方は、大量の情報に翻弄され、整理つかずに苛立っていた過去とまったく異なったものだ。
もしかしたらもの書きとしても致命的な結末に終わるかもしれない。社会との連絡を絶ち、友人たちとの交流も最小限に抑える、という行動は私を孤立させるかもしれない。
生き延びえたとしても、はたして社会が私を受け入れてくれるかどうか・・・・?
だが、それでいいのだ、と思った。
駄目なものは、駄目になっていけばいい。
壊れる物は壊れればいいのだ。
どん底まで落ち込めば、一切を失ってみれば、きっと道はおのずと開かれてくるはずだ、 と
こうした暮らしが、どのような症状を私にもたらしただろうか?
まず最初に、すさまじいほどの便通の変化に驚かされる。バナナ一本どころではなく、すっくとした俸大なる数十センチメートルもの便が、すっくすっくと一日に多いときで四回も出るのだ。
結果として、一気に四キロの体重が落ちた。
次に、幼い頃から日常化していた肩凝り、偏頭痛、日の下の隈、肌のくすみが消える。
もっとも大きな変化は心理面に現れる。現象的に言うならは、苛立ち、焦りという感覚が生活から消えた。
発病前の私は、始終、あらゆることに苛立っていた。将来を焦り、経済状態を焦り、仕事の成果、見通しを焦り......。だが、そうした苛立ちが一切、消えたのだ。
そして、次にやってきたのは季節とともに移り変わる自然の営み、生物のささいな日常、人々が生きてそこに在ることへのかぎりない敬意と感動、そしてそれらに囲まれて生きている我が身を支えてくれている家族、友人、近所の人々への感謝だった。
過去を購罪し、今日一日を生ききる。
望むものはきわめて単純だ。
やすらかな死。
あわよくば得られるかもしれない生。
生の中身もまた、きわめて単純だ。
眠り、触れ、感じ、考える・・・・。
5回目の抗がん治療をうけるかどうかという、やはり自己の決断が問われる場面に向かいます。
結局、抗がん剤の治療は中止します。
がんが完璧に消滅したわけではないですが、すべての数値は最高の状態で進んでいます。
最後の「献辞?あとがきにかえて」が、素敵です。
この本に登場してきた、或いは出会ってきた来た方々へのメッセージが書かれています。
ここに、著者柳原和子の、再生した美しい心の風景を見る思いがしました。
*中央公論社版は、1部、2部、3部に分冊して発行されている。
*完全版は晶文社から発行されている。
■著者・柳原和子
ノンフィクション作家。1950。筋ジストロフィー、医療過誤、薬害エイズ訴訟、 などに関心を寄せ作品を発表。「「在外」日本人」、「カンボジア24色のクレヨン」 「告知されたその日からはじめる私のがん養生ごはん 」等
■病歴:
卵巣がん。1997年、卵管がん原発巣、左右の子宮、卵巣、腹膜への少量の 播種状の転移が発見される。手術、抗がん剤治療を行う。その後、さまざまな代替医療を試みる


